第二次世界大戦に敗れ、焼け野原になった日本は、そこからわずか数十年で世界有数の経済大国へと成長した。
その時代に企業で働いていた人たちは、どのような気持ちで世界と向き合っていたのだろうか。
山崎豊子の『不毛地帯』を読んでいると、その一端が見えてくる。
主人公は、旧日本陸軍の参謀だった壱岐正(いき ただし)。
敗戦後、11年間に及ぶシベリア抑留を経験した壱岐は、日本へ帰国すると総合商社「近畿商事」へ入社する。
軍人から商社マンというあまりにも大きな転身だが、壱岐は軍人時代に培った情報収集、分析、戦略立案の能力を武器に、ビジネスの世界でも頭角を現していく。
そして彼は戦闘機、自動車、石油といった国家の行方さえ左右しかねない巨大ビジネスに関わってゆく。
武器を持って戦う時代は終わった。しかし、日本人が戦わなくなったわけではない。舞台が戦場から商戦へ変わったのである。
壱岐正という男がとにかく優秀
『不毛地帯』の大きな魅力の一つが、主人公・壱岐正だ。もうとにかく優秀で正義感に溢れ、人望に厚いこれぞ主人公という感じである。
陸軍士官学校を卒業し、参謀本部で作戦立案などに携わっていた軍人だったが、終戦後はソ連軍に拘束され、長期間のシベリア抑留を経験。
もう一度祖国に帰って家族に会う一心でシベリアを息抜き、帰国した壱岐が選んだ次の仕事が、総合商社だった。
軍人と商社マンは一見するとまったく違う仕事に思える。
ところが、壱岐が軍人時代に身につけた能力が商社の仕事でも驚くほど通用していく。
壱岐の強みは、単に頭がいいことではない。
情報を集めて、相手が何を考えているのかを読み、複数の選択肢から最善の手を考え、そして、組織を動かす。
軍人時代に参謀として求められていた能力が、そのまま商社のビジネスでも武器になっていくのだ。
もちろん、軍事とビジネスを並べて考えるのはよくないが、それでも、限られた情報から相手の動きを予測し、競争相手より先に手を打つという部分は競争の世界では必ず必要なのだ。
壱岐が商社マンとして活躍していく展開にも説得力がある。
戦争に負けた日本人は「ビジネス」で世界と戦う
本作を読んでいて特に印象に残ったのが、戦後を生きるサラリーマンたちの姿だった。
日本は戦争に負けたが、そこで国の歩みが終わったわけではない。
工場を建て、製品を作り、海外へ輸出し、資源を確保し、外国企業と交渉する。
日本は経済によって再び世界へ出ていく。『不毛地帯』では、その最前線にいる商社マンたちを描いてくれる。
もちろん、きれいな話ばかりではない。
世界を相手に戦う一方で、同じ日本企業同士でも激しく争い、同じ会社のなかですら派閥争いや出世競争が繰り広げられる。
しかし、世界で勝つために全員が一致団結することだけが、必ずしも日本を強くしたわけではない。
同じフィールドで隣のライバルと競い、ときには蹴落とし合いながら切磋琢磨した。その激しい競争の積み重ねが、日本企業を鍛え、世界で戦える存在へと押し上げていったのだ。
そして、立場も会社も違う彼らに共通していたのが、戦争で焼け野原となった日本を立て直し、もう一度世界に追いつこうとする強烈なエネルギーである。
同じ目的地を目指しながら、決して仲良く手を取り合うわけではない。むしろ互いに負けまいと競い合い、それぞれが自分の会社、自分の仕事で結果を出そうとする。
そう考えると、全員が同じ方向を向いた状態で繰り広げられる競争には、とてつもない力がある。
誰かが一歩先へ進めば、隣も負けじと追いかける。国内で繰り返されたその競争が企業を強くし、やがて日本そのものを世界市場へと押し上げていく。
『不毛地帯』から伝わってくる戦後日本の勢いは、単純な「一致団結」の物語ではない。
むしろ、同じ時代を生きる者たちが同じ大きな目標を共有しながら、互いに激しく競争したからこそ生まれた熱量なのだ。
商社の仕事は想像以上にスケールが大きい
『不毛地帯』を読むと、総合商社に対するイメージもかなり変わる。
物を仕入れて、別の会社へ売る。商社に対してその程度のイメージしか持っていなければ、本作で描かれる仕事の大きさには驚くはずだ。
壱岐たちが扱うのは、国家レベルの巨大案件である。
戦闘機をめぐる商戦
その代表が、航空自衛隊の次期戦闘機をめぐる商戦である。
戦闘機の選定ともなれば、単純に「どの機体が優れているか」だけで決まる話ではない。
メーカーや商社はもちろん、防衛関係者、官僚、政治家、さらには海外企業まで、それぞれ異なる思惑を持った人間たちが動き出す。
動く金額は莫大であり、その決定は日本の安全保障にも直結する。
つまり、一企業にとっては巨大なビジネスでありながら、同時に国家の意思決定でもあるのだ。
そんな案件の最前線で、壱岐たち商社マンは情報を集め、人脈を築き、交渉を重ねながら、自社が推す戦闘機の採用を目指して動き回る。
ここで描かれる商社の仕事は、単に海外から商品を仕入れて日本へ売るというものではない。メーカーと顧客の間に立つだけでもない。
国内外の企業や政府関係者をつなぎ、それぞれの利害を読みながら、巨大な商流そのものを作り上げていく。
「商社は物を右から左へ流して利益を得る会社」というイメージを持っていると、その仕事のスケールには驚かされる。
戦闘機という一つの商品をめぐって、企業の利益と国家の安全保障、さらには国と国との関係までが絡み合う。
本作を読み進めるほど、「総合商社とは一体何をする会社なのか」という疑問が湧いてくる。
自動車から石油まで動かす総合商社
さらに物語が進むと、商戦の舞台は自動車産業、そして中東の石油開発へと広がっていく。
扱うものが変われば、必要な知識も変わる。取引相手も違えば、商習慣も違う。まして海外が舞台となれば、その国の政治や経済、文化まで理解しなければ商売は成立しない。
それでも商社は、その間に入り込んでいく。
企業と企業をつなぎ、日本企業と海外企業をつなぎ、ときには企業と国家までつなぐ。そして、まだ存在していない取引の仕組みを作り上げ、巨大なビジネスへと育てていく。
特に印象的なのが、中東での石油開発である。
資源の乏しい日本にとって、石油は単なる商品の一つではない。国の経済活動を支える重要な血液だ。海外から石油を安定して確保できるかどうかは、日本経済そのものに関わる問題なのだ。
そんな国家規模の課題に、一企業である商社がビジネスとして挑んでいく。
自社の利益を求めて世界中を駆け回った結果、その仕事が日本の産業やエネルギー供給を支えることにつながっていく。
戦闘機、自動車、石油。一見するとまったく異なるものを扱いながら、国境を越えて人や企業、資金、情報を結びつけ、商売そのものを作っていく。
『不毛地帯』を読むと、総合商社が「何でも売る会社」ではなく、「世界を舞台に商売を作る会社」であることが見えてくる。
このスケールの大きさこそ、『不毛地帯』を企業小説として読む面白さの一つである。
『不毛地帯』を読むと戦後日本の見え方が変わる
『不毛地帯』には、敗戦から立ち上がり、日本が経済大国へと成長していく過程が長い時間軸で描かれている。
壱岐がシベリア抑留から帰国した頃、日本は敗戦からまだ十数年しか経っていない。
そこから経済は急速に成長し、日本企業は国内だけでなく、世界を相手に商売をするようになっていった。
私たちは、その後の結果を知っている。
日本は高度経済成長を遂げ、自動車や電機をはじめとする産業が世界市場で存在感を高め、経済大国と呼ばれるまでになった。
しかし、歴史の教科書を開けば、「高度経済成長」とい呼ばれるその過程には、名もなきサラリーマンたちの仕事があった。
『不毛地帯』では、そうした一つひとつの仕事が、壱岐たち企業人の姿を通して具体的に描かれている。
だからこそ、「戦後復興」や「高度経済成長」が、GDPや経済成長率といった数字だけの話ではなくなってくる。
戦争に敗れ、何もかも失ったところから、もう一度世界に追いつこうとする。そのために企業は新しい市場を開拓し、技術を手に入れ、資源を確保し、世界中のライバルと競争した。
その最前線にいたのは、特別な歴史上の人物だけではない。
企業に所属し、自分の仕事をしていた会社員たちである。
彼らが日々積み重ねた無数の仕事が企業を成長させ、その企業の成長が産業を強くし、やがて日本という国の復興につながっていったのだ。
教科書では「高度経済成長」の一言で通り過ぎてしまう時代を、そこで働いていた人間の目線から追体験できる。
戦後史を、国家ではなく企業人の側から見る。それだけでも、『不毛地帯』を読む価値は大きい。
『不毛地帯』がおすすめな人
- 経済小説・企業小説が好きな人
- 商社の仕事に興味がある人
- 戦後日本の経済成長に興味がある人
- 昭和の企業人を描いた物語が好きな人
- 巨大プロジェクトや企業間競争が好きな人
- 山崎豊子の作品を読んでみたい人
総評|戦場から商戦へ、日本人が再び世界と戦い始める物語
『不毛地帯』で最も印象に残ったのは、壱岐正という一人の優秀な男だけではない。
その背後にいる、戦後日本の企業人たちである。
日本は戦争に負け、国土は荒廃し、多くのものを失った。
そこから日本人は会社へ入り、工場を作り、商品を売り、海外企業と交渉し、資源を求めて世界へ出ていった。
戦争に負けた国が、今度は経済で世界に追いつこうとする。
その最前線で戦ったのが、壱岐正のような企業人だった。
その人生を追うことで見えてくるのは、一人の男の出世だけではない。
敗戦から立ち上がり、再び世界へ出ていった日本そのものだ。
戦場から商戦へ。
『不毛地帯』は、戦後日本が「経済」という新しい戦場で世界と戦い始めた時代を、企業人の仕事から体感できる一冊である。

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