『会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから』書評|会社が消えても、人と技術は消えない

会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから 書評 ビジネス書

会社がなくなると、そこで働いていた人たちはどうなるのだろう。

大企業の買収や事業売却がニュースになると、報じられるのは買収金額や株価、売却する事業、削減される人数ばかりだ。

しかし、その数字の中には当然ながら人間がいる。

昨日まで同じ会社で働いていた社員が、翌日から別の会社の社員になる。長年育ててきた技術が他社へ渡る。会社そのものを離れ、まったく違う仕事を始める人もいる。

大西康之の『会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから』が追うのは、かつて日本を代表する電機メーカーだった三洋電機と、その会社が独立企業としての姿を失ったあとの人々である。

三洋電機は経営危機を経て事業を次々と切り離し、2009年にはパナソニックの子会社となった。2011年には完全子会社化され、白物家電はハイアールへ、携帯電話事業は京セラへ移り、社員もそれぞれ別の場所へ散っていった。

会社は市場競争に負けてなくなったのだ。

しかし、会社が競争に敗れたからといって、そこで働いていた社員も本当に無能だったのか?
その会社にあった技術や経験は使い物にならないのだろうか?

自分が働いている会社が倒産しなくなると、そこにある技術や人はどうなるのか、そんなことを考えながら本書は読み進められる一冊だ。

『会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから』とは

Sanyo_Electric_Corp.

三洋電機旧本社第一ビル Wikipediaより

『会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから』は、大西康之が2014年に日経BP社から刊行した企業ノンフィクションである。

三洋電機は、白物家電、携帯電話、デジタルカメラ、半導体、太陽電池、二次電池など幅広い事業を抱えた巨大電機メーカーだった。

しかし2000年代に入ると経営状態が悪化する。

2004年の新潟県中越地震では半導体工場が被災したが、三洋の経営危機を地震だけで説明することはできない。デジタル家電市場の競争激化や価格下落なども重なり、2006年にはゴールドマン・サックスなどから総額3,000億円の資本を受け入れた。その後、事業売却が進み、最終的にパナソニック傘下へ入っていく。

金融庁は2008年、三洋電機の2005年9月中間期の半期報告書について重要な虚偽記載があったと認定している。経営環境だけではなく、財務や企業統治の側にも問題が存在していたのだ。

本書は、「三洋電機はなぜ失敗したのか」という原因分析だけでなく、元社長の井植敏、パナソニック側の中村邦夫、三洋電機会長を務めた野中ともよなど、経営や意思決定に関わった人物から会社崩壊の振り返りも描かれる。

さらに、会社を動かしていた経営者ではなく、会社の決定によって人生を動かされた社員たちの姿もななましく映し出される。

ハイアールへ移った白物家電部門、京セラへ移った携帯電話部門、会社を離れて異業種へ進んだ人、人員整理を担当した人、独立した技術者など、それぞれ異なる「三洋電機のその後」が描かれる。

三洋電機が消えても、人と技術は消えなかった

本書を読むうえで最も分けて考えたいのが、「会社の価値」と「その中にいる人や技術の価値」だ。

企業はさまざまなものが集まってできている。

ところが会社の業績が悪化すると、それらすべてが一括りにされ、「失敗した会社」と評価される。

三洋電機も独立した総合電機メーカーとしては競争に敗れた。

だが、それは三洋の中に価値あるものが何も残っていなかったことを意味しない。

ハイアールに引き継がれた白物家電

分かりやすいのが、ハイアールへ移った白物家電事業である。

ハイアールは三洋電機から、冷蔵庫や洗濯機などの事業だけではなく、研究開発、工場、販売網、人材、知的財産、AQUAブランドなどを引き継いだ。

単純な、失敗した会社の処分ではない。

もし三洋の白物家電部門に価値がなければ、人材や研究開発拠点、技術までまとめて取得する理由はない。実際、ハイアール側は三洋の研究開発力や人材、技術力を買収価値として評価していた。

携帯電話事業も同様である。

京セラは2008年に三洋の携帯電話やPHS関連事業を承継した。本書では、三洋から京セラへ移った社員たちが、新しい会社の経営や管理方法に触れる姿が扱われる。

もちろん、京セラの経営方式だったから事業が成功したと言えるかもしれない。

それでも、三洋という会社の業績と、その中にあった技術や仕事の価値を同じものとして扱えないことは分かる。

会社の評価と、そこで働く人の評価は別である

この話は、技術や事業だけではなく人にも当てはまる。

赤字の会社で働いているから、その社員も仕事ができないとは限らない。

採算の取れない事業に所属しているから、その技術者に価値がないとも限らない。

社員一人ひとりが決められるのは、自分が担当する仕事のごく一部である。どの事業へ投資するか、どの市場から撤退するか、どの会社を買収するかといった大きな判断は経営側が担う。

その結果として会社全体が競争に敗れたとしても、その責任を社員一人ひとりの能力まで広げることはできない。

カラ売り屋でも似たような場面が多く描かれる。

経営状態が悪化した巨大航空会社の中で、飛行機の安全を守るために仕事を続ける整備士たちと経営がおかしい会社。崩壊してゆく企業とそこで真面目に働く人間は同じではないのだ。

『会社が消えた日』では、それがフィクションではなく、実際に消えていった企業を通して描かれる。

会社には会社の寿命があるが、人間の仕事人生は会社の寿命と完全には一致しない。

本書に登場する元社員たちは、そのずれが実際に表へ出てきた人々である。

M&Aやリストラの「その後」にいる人間を描く

企業買収の記事を読むと、「○○社が△△事業を500億円で取得」「人員を3,000人削減」といった数字が並ぶ。

経営の側から見れば当然である。M&Aでは取得価格や収益性が重要であり、リストラでは固定費がどれだけ減るのかが重要になるからだ。

だが、そこで働いている人にとっては、自分の所属する会社が変わる。場合によっては仕事そのものがなくなる。

『会社が消えた日』が面白いのは、そこでニュースが終わらないところにある。

買われた人、辞めた人、切る側に立った人

第4章ではハイアールへ移った人々、第5章では京セラへ移った人々が扱われる。

その後はさらに個人へ視点が近づき、マーケター、人事担当者、電池技術者、生産技術者など、それぞれ違う立場にいた元社員へ主役が移っていく。

同じ三洋電機の社員でも、会社がなくなる経験は同じではない。

事業ごと別会社へ移れば、仕事自体は大きく変わらないかもしれないが、評価制度や上司、企業文化は当然のように変わる。

もちろん、自ら会社を辞めた人なら、別の仕事を探さなければならない。

さらに本書では、リストラを実行した側にも焦点を当てている。

財務諸表の上では「固定費削減」と処理される出来事が、実際には多くの人間の人生を変えてしまうのだ。

本書は、その数字の内側を人物から見ている。

「会社員」ではなくなったあとに何が残るのか

会社がなくなったとき、社員から会社名を取り除くと何が残るのか。

本書には、その答えを一つにまとめられない人たちが登場する。

専門技術が残る人もいる。営業やマーケティングの経験が別の仕事で生きる人もいる。新しい会社へ移って、それまでとは違う環境の中で能力を発揮する人もいる。

会社の外へ持ち運べるものは、資格や専門技術だけではない。

長年一緒に働いた人とのつながりや、商品を作るときの考え方、仕事に対する姿勢まで残ることがある。

元三洋社員が集まって作った家電ベンチャーもある。

法人やブランドがなくなっても、企業が何十年もかけて蓄積したものが、そこで働いていた人を通じて別の場所へ運ばれることがある。

三洋電機という会社が消えたあとを追うことで、逆に「会社とは何によってできているのか」が見えやすくなる。

「10万人のそれから」を、そのまま10万人の物語とは読めない

一方、本書を読む際に注意したい点もある。

タイトルには『三洋電機10万人のそれから』とある。

実際、2010年時点の三洋電機の従業員数は104,882人とされており、「10万人」という数字そのものは大げさなものではない。

ただし、本書は約10万人全員を追跡した調査ではない。

再就職できた割合や失業期間、退職前後の所得、転職先での満足度などを統計的に調べた研究でもない。

描かれるのは、著者が取材した複数の人物や事業のケースである。

ここは、本書をどう評価するかでかなり重要になる。

会社を失ったあとに別の場所で活躍した人や、独立した技術者の人生には説得力がある。

しかし、その事例から「三洋電機を離れた社員の多くがその後成功した」とまでは言えない。

おそらく、三洋電機に恨みを持ったままその後の人生を生きていった人もいるだろう。

本書でわかるのは、「会社を失っても全員が立ち直れる」という法則ではない。

会社の消滅と、その人の職業人生の終わりは同じではない。実際に会社の外へ経験や技術を持ち出し、新しい場所で働き続けた人がいた。

あくまで、この一例があるという距離を保って読んだ方が、本書を単純な成功談にせずに済むだろう。

大西康之が「会社の崩壊後」まで追った意味

著者の大西康之は、日本経済新聞社で産業報道や『日経ビジネス』、編集委員などを経験してきた経済ジャーナリストである。

三洋電機を取材し始めたのも、本書からではない。

2006年には『三洋電機 井植敏の告白』を刊行している。

前著が「三洋電機はなぜここまで追い込まれたのか」を経営者や創業家側から追った本だとすれば、『会社が消えた日』は、その続きを社員側から描いた作品と捉えると分かりやすい。

企業を追う記事は、倒産、買収、社長辞任、上場廃止などの大きな出来事で一区切りつくことが多い。

しかし会社に勤めている人にとって、そこから人生が終わるわけではない。

翌日も生活は続く。

新しい会社へ出社する人がいる。別の仕事を探す人がいる。会社を去る人を見送る仕事をする人もいる。

大西は、企業の「結末」のあとまで追っている。

前著との違いもここにある。前著が「なぜ三洋は壊れたのか」を中心に置いたのに対し、本書は「壊れたあと、人々はどうなったのか」へ時間を進める。

企業史の終わりから、一人ひとりの職業人生が始まる。『会社が消えた日』というタイトルとは反対に、この本で長く描かれるのは「消えなかったもの」の方なのだと思った。

『会社が消えた日』はこんな人に向いている

  • 「会社を離れたとき、自分には何が残るのか」と考えたことがある人
  • 会社の評価と、自分自身の市場価値を分けて考えたい人
  • M&Aや事業売却のその後に、社員がどうなるのか知りたい人
  • リストラや企業再編を、数字だけでなく働く人の側から見たい人
  • 三洋電機や日本の電機産業の再編に関心がある人
  • 企業ノンフィクションや人物ルポが好きな人

総評

『会社が消えた日』を「三洋電機がなぜ潰れたのかを説明する本」と捉えると、本書の後半が少し変わって見えてしまう。

独立した企業という大きな器を取り除いたとき、ブランド、事業、技術、社員の能力、仕事仲間との関係まで全部一緒に消えるわけではない。

それぞれが別の場所へ移り、別の寿命を持って残っていく。

会社が消えた日のあとに何が残ったのか。本書は、その「その後」を人間の側から追った企業ノンフィクションとして捉えると、最も特徴が分かりやすい。

コメント