黒木亮作品を何冊も読んでいると、一つの疑問が浮かんでくる。
なぜ、企業や金融という難しい題材が小説になるのか。
株式市場、銀行、企業買収、原発、航空会社。普通に説明すれば専門書になりそうな世界を、黒木亮は人間が動く物語として描いてきた。
その源流をたどるような一冊が『兜町(しま)の男 清水一行と日本経済の80年』だと思う。
本作で描かれる清水一行は、生涯214作品、累計5000万部を超える作品を世に送り出した経済小説家だ。
しかし、これは清水の代表作を紹介する作品論ではない。
東京・玉の井で育った少年が共産主義運動へ身を投じ、やがて資本主義の象徴ともいえる兜町へ入り、『小説兜町』で作家となる。
その80年近い人生を追いながら、昭和の企業社会と「経済小説」というジャンルが生まれていく過程を描いた実名ノンフィクションである。
経済小説は何を描く文学なのか。
清水一行という一人の作家を追っていくと、その答えが少しずつ見えてくる。
『兜町(しま)の男』はどのような本か

『兜町(しま)の男 清水一行と日本経済の80年』は、黒木亮が経済小説家・清水一行の生涯を追った人物評伝である。
2022年に刊行された毎日新聞出版の単行本は408ページ。2026年には毎日文庫から文庫版も刊行されている。
「日本経済の80年」と聞くと、戦後から現代までの日本経済を体系的に解説する本を想像するかもしれない。
しかし、中心にいるのはあくまで清水一行だ。
1931年に生まれ、戦争と敗戦を経験し、共産主義運動、労働運動、兜町、週刊誌、そして小説の世界へ入っていく。
清水の人生を追うことで、その背景に戦後復興、高度経済成長、株式市場の活況、巨大企業の成長、労働運動、バブル、冷戦終結といった日本社会の変化が現れてくる。
清水一行という人間を追っているうちに、日本経済の80年が見えてくる。
この順序が本作を理解するうえで重要だ。
共産主義青年は、なぜ兜町へ向かったのか
清水一行の経歴で最も面白いのが、青年期と作家時代の一見した矛盾である。
若き日の清水は共産主義運動や労働運動に身を投じていた。
ところが、その後に足を踏み入れるのが兜町だ。
証券会社が集まり、巨大な資金が動き、企業と投資家の思惑が交錯する、まさに資本主義の象徴ともいえる世界である。
共産主義青年が、なぜ資本主義のど真ん中へ向かったのか。
単純に「思想を捨てて転向した」と考えるだけでは、清水一行という人物は捉えにくい。
兜町で清水が見ていたのは、単に株価が上がるか下がるかではなかった。
神武景気、岩戸景気によって株式市場が活況を呈する一方、大衆の資金が巨大企業や証券会社側へ流れていく。その仕組みに清水は関心を持っていた。
当時の株式市場には、実際に大量の大衆資金が流れ込んでいた。
これは単なるイメージではない。当時の経済企画庁も、1959~61年の岩戸景気では投資信託によって集められた大量の大衆資金が株式市場へ流入し、株価上昇をさらに加速させたと分析している。
企業もこの株高を利用して盛んに増資し、長期資金を調達した。つまり、一般の人々から集められた資金が株式市場を通じて企業へ向かう流れが、実際に大きくなっていたのである。
そして、その世界を小説にしようとする。
長く出版社から認められなかった清水は、1966年、35歳で『小説兜町』を刊行する。
日興証券の営業部長だった斎藤博司をモデルとし、兜町独特の言葉や相場の動きを大量に取り込んだ作品は、単行本だけで約20万部を売ったとされる。
しかも、『小説兜町』が登場した時期そのものが、証券業界の大きな転換点だった。
刊行前年の1965年には証券不況が深刻化し、山一證券の経営不安が表面化。5月には日本銀行が山一證券への特別融資を決定する事態にまで発展している。
高度成長とともに膨らんだ証券市場が、そのひずみまで露呈し始めた直後に『小説兜町』は世に出たのである。清水が描いた兜町は、まさに現実の社会で大きく揺れている世界でもあった。
ここから清水一行という怪物作家が生まれるのだ。
だが重要なのは、共産主義から資本主義へ移ったこと自体ではない。
資本主義の外側から批判していた人間が、その内部へ入り込み、人々が何を欲し、何を恐れ、どう金を動かしているのかを見るようになった。
むしろ観察する位置が変わったと考えたほうが、後の清水作品につながりやすい。
経済小説とは「経済を書く小説」ではない
経済小説という言葉だけを見ると、株式、銀行、企業経営などを詳しく描く小説という印象を受ける。
もちろん清水作品にも大量の専門知識が登場する。
しかし、それだけなら企業研究や経済記事でも成立する。
清水が重視していたのは、その制度の中で人間がなぜ動くのかという部分だった。
なぜ、その人間はそう考えたのか。
なぜ、その行動を取らなければならなかったのか。
そこまで入って初めて小説になるというのが、清水の経済小説観だった。
だから清水一行の題材は、兜町だけにとどまらない。
総会屋、自動車、家電、新幹線公害、労働組合、大学、百貨店など、日本経済の成長とともに次々と舞台を変えていく。
その姿勢が分かりやすいのが、1974年に刊行された『動脈列島』である。題材となったのは、高度経済成長の象徴だった新幹線が引き起こす騒音・振動公害だ。
同じ1974年には名古屋地区の住民が国鉄を相手取り、新幹線の騒音・振動の差し止めと損害賠償を求める訴訟を起こしている。
清水はこうした現実の社会問題を背景に、新幹線転覆を予告する犯人と警察の攻防をサスペンスへ変えた。
経済成長そのものではなく、その裏側で生まれる人間の怒りや対立まで物語にする。清水一行の経済小説の特徴がよく表れた一作である。
企業が社会の中心にあり、そこへ大量の人間が集まり、金と権力が動く。
清水にとって企業は、人間の欲望を観察する巨大な舞台だったのだろう。
この視点は、現在の経済小説にもつながっている。
企業や組織の仕組みを知れることは面白い。
しかし、最後に読者が見ているのは人間だ。
会社と個人、利益と良心、出世と友情、金と欲望。
当ブログ扱ってきた黒木亮作品にも繰り返し登場するテーマだが、その一つの源流を清水一行まで遡って見ることができる。
214作品を生んだ怪物作家の仕事術

清水一行は生涯214作品、最盛期には年間8〜12冊を刊行し、累計発行部数は5000万部超えという、恐ろしく筆が速い作家だった。
清水は小説家になる以前、週刊誌の世界で複数の記者が集めた情報をまとめ、短時間で記事として成立させる仕事を経験しており、
大量の情報から必要なものを選んで一つの話へ組み立てるといった、経済小説家として重要になる能力を、この時期に身につけている。
さらに作家として成功した後には、10人を超える取材協力者を抱え、複数の常勤スタッフを使って情報を集めていた。
右手の腱鞘炎などもあり、本人が話した内容を秘書が文字にする口述筆記も利用している。
つまり214作品は、一人の作家が書斎へ籠もって猛烈な速度で原稿を書いた結果だけではない。
題材を探しから情報収集、素材整理、構成・脚本、文字起こしまで、一つの制作システムを作り上げていたのだ。
良い文章を書く能力だけでは、大量の作品を継続的に世へ送り出すことはできない。
重要なのは、良い素材が入り続け、それを作品へ変換できる仕組みまで持っていることだ。
清水一行は小説家であると同時に、巨大なコンテンツ制作体制を動かす編集者のような人物でもあった。
黒木亮が清水一行を書く意味
本作でもう一つ見逃せないのが、「誰が清水一行を書いているのか」という点だ。
黒木亮は銀行、証券会社、総合商社で23年以上働き、2000年に『トップ・レフト』で作家デビューした。
黒木作品について繰り返し語られるのが、その取材量である。
『兜町(しま)の男』でもその姿勢は変わらない。
文庫版解説によれば、黒木は10年以上をかけ、約40人を取材した。
編集者や取材スタッフだけではなく、清水の妻にも話を聞き、自宅の書斎まで確認している。
なぜ、そこまでして清水一行を書くのか。
黒木自身も経済小説を書く人間だからだ。
黒木は、経済小説には現場を知る実務家が読んでも耐えられるだけの正確さが必要だと考え、想像だけで小説を書くのではなく、取材を続けることを重視してきた。
清水もまた、大量の人間から情報を集め、それを物語へ変えてきた作家だった。
「現実を徹底的に調べ、その奥にいる人間を描く」という部分では二人はつながっている。
だから本作は、一般的な作家評伝とは少し違い、経済小説家が、自分より前の時代を生きた経済小説家の仕事を分解している。
黒木亮の『カラ売り屋』や『巨大投資銀行』のような作品を読んできた人であれば、その裏側にある「経済を物語に変える仕事」まで見えてくるはずだ。
『兜町(しま)の男』がおすすめな人
- 黒木亮作品の取材力や企業を見る視点が好きな人
- 城山三郎・高杉良・池井戸潤などの企業小説が好きな人
- 経済小説や企業小説がどのように発展してきたのかに興味がある人
- 清水一行という経済小説家の生涯や仕事術を知りたい人
- 戦後日本の企業社会や経済の変化を、一人の人物を通して知りたい人
- 金融サスペンスよりも、人物評伝やノンフィクションをじっくり読むのが好きな人
総評
| 項目 | 評価 |
|---|---|
| 面白さ | ★★★★☆ |
| リアリティ | ★★★★☆ |
| 読みやすさ | ★★☆☆☆ |
| 共感度 | ★★☆☆☆ |
| 総合 | ★★★☆☆ |
『兜町(しま)の男 清水一行と日本経済の80年』で黒木亮が追っているのは、5000万部作家の華やかな成功だけではない。
玉の井で育った少年、共産主義運動に身を投じた青年、兜町で資本主義の現実を見た経済ライター、35歳まで小説家として認められなかった無名作家。
そして214作品を残す流行作家。
一見するとバラバラに見える経験が、最後には清水一行という経済小説家につながっていく。
さらに、その人生を追っているうちに、戦後の証券市場、高度成長、巨大企業、労働運動、出版業界といった昭和の日本社会まで見えてくる。
黒木亮作品を読んできた人にとっては、源流まで遡るような一冊である。
次に読むなら
清水一行を描いた本作から黒木亮自身の小説にも興味を持った人は、「黒木亮のおすすめ小説ランキング10選」から代表作を参考にしてほしい。

経済小説をもっと読みたい人には、「黒木亮が好きな人におすすめの小説・作家5選」もおすすめ。黒木亮とは異なる方法で企業や金融、国家を描く作家を紹介している。



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