黒木亮『トップ・レフト ウォール街の鷲を撃て』書評|世界中の銀行が奪い合う左上の一席

黒木亮 トップレフト ウォール街の鷲を撃て 書評 金融・企業小説

黒木亮の小説には、ときどき異様なほど仕事に取り憑かれた人間が出てくる。

『トップ・レフト ウォール街の鷲を撃て』の龍花丈(たつはなじょう)は、その中でもかなり強烈な人物だった。

邦銀時代に屈辱を味わい、組織に迎合することなく実力を磨き続け、やがて米系投資銀行へ移る。

成功してからも古巣への恨みは消えない。日本国籍まで捨てるほど、その執念は徹底している。

「ウォール街の鷲」という異名だけを見れば、冷徹で隙のない金融マンである。

本書には馴染みのない専門用語がかなり多く出てくる。

シンジケートローン、アンダーライト、トップ・レフト、敵対的買収、ロシア危機、LTCM。

文字だけを見れば難しそうな言葉ばかりだが、不思議と金融の教科書を読んでいる感じはしない。

金を貸し、案件を奪い、ライバル銀行を出し抜き、会社を買い、そして損をすれば自分の首が飛ぶ。

金融の仕組みがそのまま登場人物たちの勝負になっている、まさに「これぞ金融小説」と感じた一冊だった。

『トップ・レフト ウォール街の鷲を撃て』はどんな小説?

『トップ・レフト ウォール街の鷲を撃て』は、黒木亮が2000年に発表した小説家としてのデビュー作である。

物語の舞台は1990年代後半の国際金融。

主人公は、大手邦銀・富国銀行ロンドン支店次長の今西哲夫(いまにし てつお)と、かつての同僚で現在は米系投資銀行に所属する龍花丈(たつはな じょう)。

二人は、日系自動車会社のトルコ現地法人に対する1億5,000万ドルの融資案件でぶつかり合う。

物語が進むにつれて巨大M&Aや金融市場の混乱まで絡み、話は一つの融資案件から世界規模へ広がっていく。

銀行員が企業へ融資するという一見地味な仕事のなかに、世界中を股に掛けた、これほど激しい勝負の世界があるとは想像もしなかった。

「ウォール街の鷲」龍花丈という男

龍花は邦銀時代、学閥、人事、嫉妬、上司との関係など、組織の中で苦い経験をしている。

しかし、実力だけではどうにもならないものに振り回されながらも、周囲と群れて立場を守る方向には進まず、黙々と実績を積み上げる。

自分を評価しない会社に対して愚痴を言い続けるのではなく、自分の力そのものを高め、

時代にも後押しされながら金融グローバルの波に乗って邦銀を飛び出し、米系投資銀行の世界で実力を証明していく。

そして、自分をゴミのように扱った日本の銀行への恨みをエネルギーに換え、24時間休むことなく走り続ける。

しかし、どれだけ大きな仕事を成し遂げても、何百億という金を手にしても、いつまで経っても過去の記憶に取り憑かれる。

読後に残ったのは、鷲のように強い金融マンという姿だけではなく、寂しさを抱えた一人の人間という印象だった。

「トップ・レフト」とは何か?

本作を読むまで、「トップ・レフト」という言葉を知らなかった。意味を知ると、なぜこの言葉が作品タイトルになっているのかがよく分かる。

巨大企業が大規模な資金調達をする場合、一つの銀行だけで融資を引き受けるのではなく、世界中の金融機関が集まって資金を出し合うことがある。

これを国際協調融資(シンジケートローン)という。

そのなかで、借り手と融資条件を交渉し、参加する金融機関を集め、銀行団をまとめる中心的な役割を担うのが「主幹事銀行」と言われる。

金融業界では、こうした大型案件が成立すると、記念品として「トゥーム・ストーン(墓石)」と呼ばれる透明なアクリル製の置き物が作られ、

そこには案件に参加した金融機関の名前が並び、そのなかでも主導的な役割を果たした金融機関の名前が、最も目立つ左上に記される。

この場所こそが、「トップ・レフト」というわけだ。

つまりトップ・レフトとは、単なる名前の掲載位置ではなく、巨大な金融案件を誰が主導したのかを示す、金融機関にとっての勲章なのだ。

世界中の銀行が一つの融資案件に集まる

さらに面白かったのが、シンジケートローンそのもののスケールである。

世界的な巨大企業が資金調達をするとなると、そこへ世界中の銀行が集まってくる。

国内の中小企業が銀行に借入をする場合、銀行は借り手の財務や事業の収支計画などをチェックするが、

これがシンジケートローンとなると、国の情勢、通貨の受給、国際法、近隣諸国の治安、文化、宗教など、一気にスケールが大きくなるのだ。

だから国際金融マンはただ数字に強く賢いだけでは成り立たない。

教養を身につけ、そして何百億という規模の責任を背負いながら、世界中の人間との交渉にも動じない、真に強い人間だけがなれるのだと思った。

この一つの融資案件に世界が凝縮されている。普通に生活していたら、まず知る機会のない世界である。

邦銀と外銀、どちらもかなり怖い

本作でもう一つ驚いたのが、邦銀内部の腐り切った描写だ。

学閥、人事、嫉妬、足の引っ張り合い。

登場する人物は、自分の仕事が世の中に貢献しているかなんぞ一ミリも考えない、典型的な責任逃れの社内出世のことばかり気にする、組織人間ばかりだ

もちろん、小説で描かれた邦銀の姿を、そのまま1990年代の日本の銀行の姿にそのまま当てはめることはできない。

ただ、当時の日本の銀行が厳しい時期にあったこと自体は事実である。

1990年代後半には不良債権問題や金融機関の破綻が続き、日本の銀行の信用力にも大きな圧力がかかっていた。

1997年には北海道拓殖銀行が自主再建を断念し、そのわずか1週間後には四大証券の一角だった山一證券も自主廃業を決めた。

北海道拓殖銀行は預金流出だけでなく、銀行同士で資金を融通する市場でも資金調達が難しくなるほど信用を失っていた。

日本の大手金融機関でさえ、「この銀行は本当に大丈夫なのか」と疑われる時代だったのである。

そんな邦銀と対照的に外資系投資銀行はとにかく結果を出す。

稟議の速さやリスクを恐れない強いメンタル、そして「My word is, my bond.」(約束は必ず守る)の精神。

読んでいて、正直かなり格好いい。邦銀の腐った官僚体質に嫌気がさした龍花のような人物が邦銀を飛び出すのも理解できる。

ただし、外銀の世界を見ていると、こちらも手放しでは憧れられない。

相手が弱ければとことん攻め、知識や情報に差があれば利用し、利益になるなら容赦しない。

アングロサクソン的な徹底したプロ意識に圧倒される一方、醜さや怖さも感じた。

古い邦銀と実力主義の外銀という対比構造はとてもわかりやすかった。

「My word is my bond」金融は信用で動いている

「My word is my bond」。直訳すれば、「私の言葉が私の証文である」といった意味になる。

契約書に書いてあるから守るのではない。「あの人が言ったのなら大丈夫だ」という信用そのものが取引を支えるのだ。

シンジケートローンを見ていると、その意味が分かりやすい。

一つの案件を成立させるために、何行もの銀行へ声をかけなければならなず、また、今日の競争相手が、明日の案件では仲間になるかもしれない。

一度約束を破って目先の利益を取れば、その後誰も一緒に仕事をしてくれなくなる。金を扱う世界だからこそ、意外なほど人間の信用に頼っているのだ。

最先端の金融技術や巨大な金額が登場するのに、最後は「こいつを信用できるか」という極めて古典的なところへ戻ってくる。

ロシア危機やLTCMまで物語の中で動き出す

『トップ・レフト』を読んで「これぞ金融小説」と感じた理由は、金融史そのものがストーリーの中に入ってくることだ。

ロシア危機、LTCM、イマージング・マーケット(新興国市場)、敵対的買収、TOB。

どれも金融の本を読めば、一つずつ章が作れそうな題材である。

ロシア危機は、1998年にロシア政府がルーブル建て国債の債務再編を発表したことをきっかけに、ルーブルが急落し、国内で多くの銀行が破綻した出来事である。

しかし、影響はロシアだけでは終わらない。

投資家が世界中で一斉にリスクを避けたことで金融市場は混乱し、その余波はアメリカの巨大ヘッジファンドLTCMにも襲いかかった。遠く離れた一国の財政危機が、世界中で金を動かす金融機関の損益や生死にまでつながっていく。

LTCMはノーベル経済学賞受賞者などが参加したヘッジファンドでありは、1998年4月時点で約49億ドルの自己資本に対し、約1,250億ドルもの資産を抱えていた。

Figure 1: LTCM Assets and Equity Capital

Federal Reserve Bank of New York, Staff Report No. 688, Figure 1(Source: Perold, 1999)

ところがロシア危機をきっかけに市場の前提が崩れると、巨額のポジションが一気に裏目へ回る。

LTCMが破綻すれば取引相手だった銀行にも損失が連鎖しかねず、ニューヨーク連銀が金融機関を集めて対応を協議する事態となった。

最終的には民間金融機関が約36億ドルを出資してLTCMを支えることになる。一つのファンドの失敗がウォール街全体を揺らしかねないほど、金融機関同士の取引はつながっていたのである。

本作ではこうした実際の金融史が、登場人物や事件と密接に絡んでくる。

そのため、事前知識がなくても、物語を読み進めれば理解でき、そして詳しくなれる。

『トップ・レフト』が向いている人

  • 銀行や投資銀行がどのように巨大案件を取るのか知りたい人
  • シンジケートローンや国際金融に興味がある人
  • 海外で働く金融マンの仕事を覗いてみたい人
  • 邦銀と外資系企業の組織文化の違いに興味がある人
  • ロシア危機やLTCMなどの金融史が好きな人
  • 『巨大投資銀行』など黒木亮の国際金融小説が好きな人
  • 組織に属するか、自分の実力で勝負するかという仕事の選択に興味がある人

総評

項目 評価
面白さ ★★★★★
リアリティ ★★★★★
読みやすさ ★★★★☆
共感度 ★★★★☆
総合 ★★★★★

本作に出会い、今まで知らなかった金融の世界まで見えてきた。

一つの融資案件に世界中の銀行が集まり、誰が主幹事になるかを巡って本気で競争する。

企業だけでなく、国家、文化、宗教、信用、人間関係まで考えて金を動かす。

そして、市場が崩れれば昨日までの前提が一瞬で変わる。

こういう世界が実際にあり、そこで人生を懸けて働いている人間がいる。

いつか生きているうちに、こういった世界で闘っている人間を生で見てみたい。

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